エリック・クラプトン 「ゴッド」と呼ばれる才能と毀誉褒貶
(ユニバーサル UICY 91398)
今年の2月には通算18度目の来日公演を果たし、盟友ジェフ・ベックとの共演というサプライズも提供してくれたエリック・クラプトン。さほどロックに詳しくない方でも、「いとしのレイラ」や「チェンジ・ザ・ワールド」といった名曲はご存じかもしれませんね。
クラプトンが初めて来日したのは昭和49年(1974年)のこと。今からもう35年も前の話で、ここまでコンスタントに日本に来てくれる大物は彼ぐらいでしょう。何しろほぼ2年に一度足を運んでいるわけですから。
初来日の舞台は、この連載でもたびたび登場してきた日本武道館。今でも彼の代表作として名高いアルバム『461オ−シャン・ブ−ルヴァ−ド』を携えてのライヴとなりました。そしてこの作品は、「復活の狼煙(のろし)」とも言えます。なぜならクラプトンはその前の3年間ほど、薬物とアルコール中毒に陥り、隠遁者のような生活を送っていたからです。
薬物の泥沼にはまる前の彼は、華々しいキャリアを重ねたスーパースターでした。1960年代前半にわずか17歳で音楽界に足を踏み入れた後、若くして「ゴッド(神)」と呼ばれるほどの名ギタリストとして賞賛され、その名を広くロック界にとどろかせていたのです。60年代を通じて渡り歩いたバンドはヤードバーズ、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ、クリーム、ブラインド・フェイス。そのどれもが現在でも高く評価され、後のソロ活動の基盤となったことは言うまでもありません。
1970年にはソロ・デビューを果たすのですが、同年夏にはブルースへの愛情を凝縮させたバンド、デレク・アンド・ドミノスを新たに結成し、傑作『いとしのレイラ』をリリース。オールマン・ブラザーズ・バンドからスライド・ギターの名手、デュアン・オールマンを迎え、楽曲も充実の仕上がりとなったのですが……結果的にはこのアルバム一枚で解散(原因はメンバー間の不和)。その後、失意のうちにクラプトンはくだんの中毒地獄へと落ちていきました。
負のスパイラルへ陥った要因には、もう一つ大きな理由があります。それは「禁断の恋」。当時のクラプトンは、ジョージ・ハリソン(元ビートルズ)の妻であるパティ・ボイドにぞっこんで、人の妻と知りながら積極的なアピールを続けていたのです。そもそも『いとしのレイラ』自体が彼女への思いのたけをつづった作品であり、それをアルバム一枚で表現してしまうほど繊細な男だったというわけです。熱心な思いが通じて、晴れて2人が結ばれたのは1979年3月27日のことでした。とはいえ、1989年には別れてしまったのですが。
創作へ駆り立てた音楽への愛情
立ち直るまでに、ザ・フーのピート・タウンゼントを始め、さまざまな友人が手を差し伸べてくれたのは有名な話。一度は廃人のようになったものの、みなぎる音楽への愛情はクラプトンを創作へと駆り立てました。そして初来日直前に発表した『461オ−シャン・ブ−ルヴァ−ド』は、それまでのブルース・ロックから解き放たれ、レゲエ・ミュージックを取り入れるなど新しい音楽性に開眼。ギタリストに加え、ヴォーカリストとしても評価されるようになった転換点でもあります。特にヒット曲となったボブ・マーリィのカバー「アイ・ショット・ザ・シェリフ」は、レゲエの素晴らしさをロック・ファンに広めるきっかけになった意味でも重要です。
といった劇的な状況での初来日でしたが、感動的だったという回想がある一方で、一部では「酔っ払っていた」という目撃情報もあるなど、少しばかり「立ち直りかけ?」と思わせる場面もあったようです。ただし早くも翌年に実現した2度目の来日ではほとんど悪い評判を聞きませんので、彼のような天才でもコントロールできない部分があるということでしょう。
さて、最近のクラプトンは1か月近く日本に滞在することも珍しくなく、自他共に認める親日家でもあります。何しろ和食が大好き、ファッションはストリート・カジュアル系がお好みで、特にスニーカーには目がないとか。次の来日期間中に渋谷や原宿の洋服屋やシューズショップなどをマメに張っていれば、もしかしたら会えるかもしれません(笑)。
洋楽ロック専門誌『クロスビート』の編集に14年間携わり、その後フリーに。これまでに取材したミュージシャンの数は300人以上。フジ・ロック・フェスティバルは97年の第一回から皆勤賞。

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